葬送のフーガ(8)

 ユノ(三)

 子供の頃を思い出そうとすれば、記憶はいつも白一色に染められている。
 わたしは十歳までの間、ほとんど家と学校と病院を行き来する日々だった。特に具合が悪いと感じることはなかったけれど、わたしの体は突然変異の中でも特殊なケースらしく、研究のためにも通院は欠かせなかったのだ。
「ユノちゃん、今日はどこか具合の悪いところはない?」
 白い診察室の中、いつも穏やかな笑みで問診するのは、エリサさんの役目だった。ぱりっと糊のきいた白衣は、すっと伸びたエリサさんの背中に実によく似合っていた。二十七歳という、医師としてはまだまだ駆け出しの年齢でも、まるで長年勤めているような落ち着きが感じられた。
 とはいえ、それは医師になる前から彼女が持っていたもの。エリサさんの一族が経営する病院に出入りしていたわたしは、まだ学生の頃の彼女ともよく会話を交わしていたので、そのことを充分知っていたのだ。
「ぜーんぜん。どこも悪くなんかないわよ。体育だって、他の子たちより成績いいくらいなんだからね」
 そう、それは凄いわ、とエリサさんはまるで自分の妹を誉めるような微笑を向けた。
 実際、当時のわたしは体の変調など微塵も感じられなかったのだ。何しろ、わたしに欠けていたのはたった一つの臓器。そしてそれは、十歳の子供にはまだ不要なものだった。
「でもね、ユノちゃん。手術が終わってしばらくするまで、激しい運動をしたりしちゃだめよ。でも縫った痕がきれいになったら、もう好きなだけ体を動かしてもいいからね」
「大丈夫だって。わかってるわよ、エリサさん。ほんとにもう、心配性なんだから」
 何も知らないわたしは、笑いながらそう返した。もう少し大人になっていれば、その時のエリサさんの表情が曇っていたことに気づいたかもしれない。
 エリサさんが抱えていたのは、わたしに対する心配だけでなく――自分自身の不安と葛藤だったということに。
「やあユノちゃん、こんにちは。ちょっとお邪魔するよ」
 わたし専用の個室にひょっこり現れたのは、まだ学生のような顔をしたセリトさんだった。
「お邪魔なんてとんでもないわ。わたしのほうこそ、二人のお邪魔虫でしょ」
「まったく、どこでそういう言葉を覚えてくるのかなあ」
 セリトさんは照れたように笑いながら頭を掻いた。
 八年前のその当時、セリトさんとエリサさんは結婚を間近に控えていた。エリサさんがわたしの手術を無事終えた後で入籍する予定なのだと聞いた。
 傍から見ていると、本当に二人は対照的で、それでいてとてもお似合いだった。
 色素のない、全身を白一色で統一したようなセリトさん。そして、その隣のエリサさんは、長い黒髪を軽く掻き上げながら漆黒の瞳を婚約者に向けていた。
 白と黒――まったく正反対の色をまとっているのに、二人はまるで生まれた時から一緒のような、実に自然な空気をかもし出していた。
 セリトさんとエリサさんは大学の同級生だったのだという。ただし、一族の病院で医師の道を進むエリサさんとは違って、当時のセリトさんは大学に残って研究を続けていた。だけど、セリトさんは学生の頃からエリサさんを訪ねてこの病院によく顔を出していたので、わたしはよく知っていたのだった。
 そのセリトさんは、わたしに見せた柔和な表情から一変して、いつになく真剣な顔をエリサさんに向けていた。恐らくわたしの知らない、深刻な話があるのだろう。そう察したわたしは、二人を残して部屋を後にした。
 今にして思えば、その時セリトさんは最後の忠告に来たのだろう。わたしの手術は、もう二日後に迫っていた。


 一人になりたい時、わたしはいつも行く部屋があった。
 人工樹の生い茂る中庭を抜けて、少し離れたところに建つ旧棟。その中でも、最も端の個室は長年使われないままになっていた。錆び付いた簡易ベッド、一昔前の器具、ローラーの壊れた台車など、必要なくなったものたちが一箇所に押し込められているようだった。
 最も僻地にあるその部屋を、わたしは長年の探索の果てに見つけていた。子供にとって病院など退屈でしかない場所だ。それで、大人の目を盗んでは個室から抜け出し、敷地内をくまなく回った。そして小学校に上がった頃に、わたしはその部屋を発見したのだった。
 その日も、わたしは人気のない物置部屋を目指していた。手術に対する不安が特にあったわけではない。エリサさんを信用していたので、その点では疑う必要もなかった。
 ただ、どこか――周囲がなぜかぴりぴりと張りつめているような、そんな空気をわたしは無意識に感じ取っていたのかもしれない。
 ここはエリサさんの一族が経営する私立病院で、また共同出資している我が家とも懇意にしていることから、わたしは生まれた時からVIP扱いを受けていた。だから大事な「お嬢様」を粗略に扱う人は誰もいなかったし、少しくらい個室を抜け出てふらふら歩き回っていても、咎められることはほとんどなかった。そしてこの日も周囲はいつも通り、わたしの好きなようにふるまわせていた。
 それでも、気づいてしまうのだ。何となく、この手術が尋常ではないということに。
 言葉や態度は丁寧でも、たとえ今まで親しくしてきたエリサさんでさえ、何のためのどんな手術なのかを教えてはくれなかった。だから手術が成功するかどうかより、その不透明さがわたしの不安を煽っていたのだろうと思う。
 そしてまさにそんな折、いつもの物置部屋と向かい合った個室のドアが、数センチほど開いていることにわたしは気づいたのだった。旧棟の中でも最も静かな一角で、特にその向かいの部屋は常に鍵がかかっていた。とうに閉鎖されてしまったのだろうと思って見向きもしなかったけれど、この日だけは開いている。まだ幼いわたしの好奇心がくすぐられないはずはなかった。
 人目につかないうちに室内にすべり込んだわたしは、その光景を目にするなり言葉を失った。
「これ……は……?」
 誰に問うわけでもないのに、ついそんな台詞が漏れた。
 その部屋には、病室に不可欠のベッドがなかった。代わりに、狭い室内の中央に鎮座していたのは、バスタブより二回りほど大きな水槽だったのだ。
「生きて……る、の……?」
 そしてその水槽には、透き通った液体と人間の体が入っていた。全裸であるため、それが少女であることはすぐにわかった。彼女は全身の至るところに無数の管と電極が繋げられ、水槽の脇に置かれた機械に接続されていた。じっと目を凝らして見ると、液体の中でたゆとう少女の薄い胸は、かすかに上下しているようだった。
 でも。
 いったい、なぜこんなところで彼女は水槽に沈められているのだろう? わたしは食い入るように水槽の中をのぞき込んだ。
 顔の半分は、鼻と口に着けられた太いチューブによって隠されていた。恐らくはそれで酸素を送られているのだろう。もっとよく見ようとわたしが身を乗り出した時、まるで寝返りを打つように、少女は液体の中で首を傾けた。
 眠っているのか、固く閉ざされた両目。それでも――露わになったその素顔に、わたしは思わず息を呑んだ。
「あ……わ、わた……し……?」
 手の震えすら自分で感じることができなかった。ただひたすら、無数の管に繋げられた少女の顔をじっと見つめていた。
 目を閉じていても、見間違えようはずがない。それは、いつも鏡で見慣れているわたし自身の顔だったのだ。
 あまりのことに声も失い、呆然と立ち尽くしていると、
「――まったく、ふらふら出歩くからこういうものに遭遇するんだぞ」
 不意に背後から溜息混じりの声が上がった。
「ハル!? どうしてここに……」
 呆れたような声の主は、その時も相変わらず十二歳の姿のハルだった。彼は大きく息を吐き出すと、眉をひそめて叱りつけた。
「それは俺の台詞だ。何で病室で安静にしているはずのおまえが、こんなところにいる?」
 そう返されては言葉がない。わたしはうなだれたまま、口をつむぐことにした。知らない人には同じ年頃の子供同士としか見えないだろうけれど、この時のハルは十九歳になっていた。十歳の子供を叱るのも当然ではある。
「さあ、早く部屋に戻れ」
 ハルは有無を言わせず、ぐいぐいとわたしを室外に追い出そうとした。だけど、この時ばかりはそのまま引き下がるわけにはいかなかった。
「ちょっと待って……! この水槽はいったい何? この子はいったい誰なのよ!!」
 わめき立てたその台詞にハルは一瞬、体を強ばらせた。
「……それを知ってどうする?」
「どうするって……だって、わたしと同じ顔じゃない! わたしと何の関係もないって言うの!?」
 今度は眉をひそめるだけでなく、はっきりと聞こえるくらいの舌打ちをした。
「これだから――……」
 何かを言いかけたところでハルは言葉を切り、苛立ったように自分の頭を掻きむしりながら再び口を開いた。
「……ああ、そうだ。これはおまえの双子の妹だよ。リノと名づけられて、生まれた日からずっとこの水槽の中にいる」
 こつこつ、とハルは握った手の甲で水槽をたたいた。そこには、入院ベッドの名札のようなラベルが貼られ――手書きで「リノ」と書かれていた。まるで水族館の魚を展示するかのように。
「どうして……」
 唇から問う言葉がこぼれ落ちても、その後が続かない。本当は聞きたいことなど山ほどあるにも関わらず、何と訊けばよいのか、それさえわからなくなっていた。
 そんなわたしの混乱する思考を読み取ったかのように、ハルは憮然とした表情で続けた。
「誰もおまえに言わなかったのは、たとえ知ったところでどうすることもできなかったからだ。リノは何も感じることも、喋ることもできないからな」
 声を失ったわたしは、もはやなぜと問うことさえできなかった。しかしわたしの意をくみ取って、ハルはさらに続けた。
「リノの脳は、母親の腹の中で成長しなかった。十年経っても、四か月の胎児と変わらないんだ」
 わたしは急速に体が冷えてゆくのを感じた。あまりにも突然見せつけられた現実に、思考が追いつけなかった。
 双子の妹?
 何も感じられない?
 脳が成長しなかった?
 次々と明かされる言葉は、どれも信じがたいものだった。ただ聞かされただけなら、夢物語と思うところだろう。だけど。
 わたしは、ちらりと水槽に目を向けた。
 そのどれもが真実なのだと、無数の管に繋げられた彼女は無言で伝えていた。わたしと寸分違わぬその相貌で。
「どうして……何でハルは知ってたのよ!」
 ほとんどやけになって、わたしは叫んだ。今さら言ってもどうにもならないことくらい、まだ十歳のわたしにも充分わかってはいた。だけど、それでも言わずにはいられなかったのだ。ハルが、まるで教科書でも読み上げるように平然と事実を伝えることに。十二歳の子供の顔をして、悟りきった大人のような態度がいっそうわたしを苛立たせたのだ。
「――俺が、エリサの弟だからだ」
 幼い声で静かに告げたその言葉が、胸に重くのしかかった。
 返す言葉もなくたたずむわたしに、ハルは「さあ戻るぞ」と手を取った。ただ引かれるまま歩きながら、わたしは一言も口にすることができなかった。
 頭を占めていたのは別のこと。
 ――エリサさんは、知っていたのだ。
 この病院の医師なら当然のことだろう。だけど。
 ――エリサさんは知っていて、黙っていたのだ。
 たとえ知ったところで、わたしにできることはなかったとしても。


 エリサさんに問いただすこともできないまま、呆気なく手術は終わってしまった。
 もちろん彼女の腕を信じた通り、無事成功した。術後、ようやく歩けるようになったわたしが真っ先に向かったのは、水槽のある旧棟の一室だった。もう一度この目で確かめて、そして改めてエリサさんに訊こうとわたしは思っていたのだ。
 けれど、その部屋は文字通り、もぬけの殻になっていた。
「どうして……」
 リノも、水槽すらも、その場から消えていた。まるでわたしが見たのは幻だったかのように。
 訊こうとしていたエリサさんは、手術を済ませた後に病院を去ってしまった。セリトさんと結婚したという噂は聞こえてきたけれど、何も言わずにわたしの前から消えてしまったのは、やはり意外だった。
 そして、もともと病院の人間ではないハルは、エリサさんが辞めた後は一度も顔を見せなかった。
 当然、事情を知っているはずの両親に一度だけ訊いてみたけれど、普段からよそよそしい彼らは「夢でも見たんじゃないのか」と、まったく取り合わなかった。
 言われてみれば、本当に夢だったのではないかと時々わたしは思うようになっていた。何しろ見かけたのはただ一度きり。その後すぐに全身麻酔で大きな手術をしたこともあり、記憶が少し混乱していたのかもしれないと自分に言い聞かせるようになっていた。また、事情を知る姉弟がそろって姿を消してしまったことも、わたしからリノの記憶を薄れさせる要因になった。
 そうして二人が姿を消してから一年後。わたしの元に届いた一通の電信は、エリサさんの訃報だった。
(2015年08月24日 20時10分)