葬送のフーガ(17)

 レイ

 病院を出ると、細かな雪の欠片とともに冷たい風が容赦なく吹きつけてきた。
 だが、セリトさんは何も言わず、寒風の中をずんずんと進んでゆく。――僕の手を引っ張ったまま。
 黒いコートのポケットに突っ込んでいたせいか、セリトさんの手は思ったよりも温かかった。普段、頭をなでられるくらいしか触れたことがないので、この程度のことでも心臓が高鳴るのを僕は感じた。
 しかし、今はそれどころではない。大事なことを知るため、僕は訊ねた。
「セリトさん……いいんですか」
「何がだい?」
 振り返ったセリトさんの目は、どこか疲れているように見えた。日が隠れて薄暗くなったので、日中の屋外でもセリトさんは今、サングラスを外している。だが、その瞳に映る暗い色は、夕闇のせいばかりではないだろう。
「あの鉢植え……あれは大事な墓標なんでしょう? あのまま置いてきてもよかったんですか?」
 希望と再生を表すスノードロップ。
 あれはセリトさんの妻子の墓でもあるのだ。だからずっと大事にしてきたのに、置き去りにしてくるなんて、とても信じられなかった。
「いいんだよ。本来あるべき場所に返すべきだったんだ。今がちょうどいい機会なのかもしれないね」
「あるべき場所って……だって、セリトさんは……」
 セリトさんは、ずっとあの花を――花の下に眠る人たちを守ってきていたのに。それなのに。
 すると、僕の呑み込んだ言葉が聞こえたかのように、セリトさんはこんな台詞を口にした。
「そろそろ眠らせてあげなければいけないんだよ。ずっと手元に置いていたのは、私のエゴさ」
 自嘲気味な笑いを収めると、セリトさんは不意に話題を変えた。
「それよりあの二人、うまく収まればいいんだけどね」
 あの二人とは言うまでもなく、ユノとあの婚約者のことだ。
「大丈夫なんですか……?」
 僕はおずおずと訊ねた。あの二人がどんな結論を出すのかわからないまま、セリトさんは立ち去ってしまったのだ。あれだけこじれていた二人を、あのまま放ってしまってもよかったのだろうか。
 そう思ったのだが、セリトさんは、ふっと小さく笑ってみせた。
「それは当人たちが決めるだろう。というより、もっと早くに話し合うべきだったんだ。今からでも遅くない、お互いしっかり向き合って答えを出せばいい」
 それもそうだ。彼らのことに、僕たちが立ち入るべきではないのだろう。彼らの人生は、彼らが決める。
 ――そう、僕が決断をするように。
 僕は、コートのポケットの中で、セリトさんが引くのとは逆の手を強く握りしめた。と同時に、冷たく吹きつけていた風が止み、ちらちらと雪が舞い降りる。
 僕が意を決して口を開こうとした、まさにその時。
「レイ……そういえば、あの締切って今日じゃなかったかな」
 急に思い出したかのように、突然切り出したセリトさんの言葉に、僕は思わず吹き出してしまった。
「何がおかしいんだ」
「いえ……よく覚えていたなと思って」
 僕はそんなふうにはぐらかした。でも、本当は違う。
 いつもはのんびりしすぎているセリトさんが、僕の先回りをした台詞を口にしたことが、あまりにも意外だったのだ。
 すると、僕の言いようが気に入らなかったらしく、セリトさんはやや憮然として返した。
「当たり前だろう。大事なことなんだから」
「大事ですか?」
「当然だ」
 セリトさんの答えに、僕は大きく息をつく。
 胸の奥には、いつも言えなかった言葉が眠っている。口に出してしまえば、今までのぬるま湯のような関係が崩れてしまうと思っていたから。
 でも、もう子供のふりをして、はぐらかしてはいられない。決断の時はもう目の前まで迫っているのだから。
「――それは、僕が家族だから?」
 僕の言葉に、セリトさんは頷いたように見えたが、その仕草はあいまいで、はっきりとはわからなかった。ずんずんと足早に進むセリトさんの背に、僕は心で問いかける。
 ねえ、セリトさん。
 僕の言いたいこと、理解してますか?
 繋いだ手から、セリトさんの体温が伝わってきて、氷のように冷たかった僕の右手も次第に温まってくる。手のひらの熱が溶け合って、まるで一つになるように。
 ねえ、セリトさん。
 僕が気づいていないと思ってました?
 セリトさんはずっと、僕と距離を置いていた。親しく言葉を交わせるようになっても、決して踏み込ませない領域を保っていた。それは、もうセリトさんの心に入る余地がないからだと僕は思っていた。土に還った女性(ひと)に、セリトさんの想いは捧げられているのだろうと。
 だけど、真実は少し違ったのかもしれない。そのことに、僕は今日初めて気づいた。
 セリトさんの心を占めていたのは、失った人への愛情よりも、重くのしかかる罪悪感だったのではないか。自分の罪の証として、あの花を手元に置いていたのではないか、と。
 でも、セリトさんは今日、あの花をついに手放した。亡くした日から、ずっと手元に置いていた「彼女」を。
(――私は確かに『再生』を願った。だが、ここには『希望』なんてない。あるのはただ、私自身の罪の証だ)
 以前、そう寂しげに言っていたセリトさん。それは、罪の意識が強すぎて、花の向こうに重い過去しか見つめられずにいたからこその台詞だろう。
 でも、今のあなたはもう持っているんですよね?
 亡くした人を想う二人に、花とともに託した「希望」を。
 それなら、僕も持つことにしよう。明日から始まる、新たな生への希望を。
「セリトさん。僕、大学入試を受けます」
 僕の急な発言に、セリトさんは驚きに目を大きく見開いた。
 もちろん僕だって、進路よりも先に期限の迫っている選択を優先しなければならないことくらいわかっている。
 だけどこれはその選択に、大いに関わることなのだ。だからこそ今、ここで話しておこうと思う。
「大学で、遺伝子工学を勉強しようと思います」
 性別を持たない中間性。
 一部の臓器が欠落した欠損児。
 子供のまま成長しない発育不全。
 色素を持たず、日を浴びられないアルビノ。
 僕たちは皆、先天的に遺伝子上の異常を抱えて生まれ落ちた。そして将来、同じような子供はますます増えることだろう。
 その苦しみを理解し、力になれるのは、やはり同じ境遇の者が最もふさわしいのではないかと僕は思うのだ。
「そうか……レイがそう決めたなら、私は応援するよ」
 かすかに笑むと、セリトさんは僕の頭をくしゃりと撫でた。どこかくすぐったくて心地よい、いつものしぐさ。
 だけどこんなやり取りも、いつまでもできるわけではない。温かな手を感じながら、僕は小さく唇を噛んだ。
「セリトさん、わかってるんですか? 僕が家を離れたら、一人暮らしになるんですよ。きちんと人間らしく生活できますか?」
「人間らしくって……一応、レイが来るまではこれでも自活していたんだけどね」
 僕があえて明るく返すと、セリトさんは困ったように頭を掻いた。それを見て、僕はほっと息をつく。
 よかった、いつものセリトさんがここにいる。
 セリトさんは何も変わらない。僕に向ける優しい眼差しも、受け止めてくれる温かな手も、きっとこの先も変わることはないだろう。
 だけど――だからこそ、僕が変わらなければならない。居心地が良いからと、明日へ進む歩みを止めてはいけないのだ。
 「僕」は、ここでいなくなるのだから。
「ねえ、セリトさん。僕が僕でなくなっても、僕を受け入れてもらえますか?」
 その言葉に、セリトさんは驚いたように目を見開いた。足早な歩みをにわかに止めて、僕をまじまじと見つめてくる。
 そうして、ゆっくりとこう告げた。
「レイはレイだ。それ以外の者にはならないさ」
 ――ああ、やはり。
 セリトさんは、本当はとても人の心に敏感な人だ。普段はぼんやりしているように見えても、その目は素早く真意を読み取ってしまう。だから今の僕の言葉も、当然察しているだろう。僕が「僕」でなくなるという、その意味に。
 「僕」は、セリトさんと出会ってから三年間、外したことのない仮面だ。拒絶されることが怖くて、僕はずっと「僕」を演じてきた。男としてふるまっている限り、拒絶されることも傷つくこともないからと、僕はずっとずるい真似をしていたのだ。
 でも、もう自分を偽るのはやめよう。
 自分の気持ちは、確かにここにある。どんな答えを出されたって、逃げてはいけないのだ。
 「僕」の仮面を外し、あの家を出てしまえば、今までとまったく同じ関係を維持することはできないだろう。でも、だからこそ、その道を選ぼうと思う。ぬるま湯に漬かったままの今よりも、たとえ冷たくても希望のある未来へと進むために。
 手を繋いだまましばらく歩くと、目的地がようやく見えてきた。
 今日、「僕」と決別すべき場所――役所の前に到着すると、セリトさんの手を離し、こう伝えた。
「じゃあ、今から手続きしてきます。待っててくださいね。――わたしが戻るまで」
 それだけ告げて、一歩を踏み出した。
 わたしたちの再生のために。
(2016年02月04日 16時23分)