終わらない呪文

 ――そんなことが信じられるか。
 零時少し前。山手線の車輌の窓外、都会の狭間に沈む虚空へと血走った目を鋭く肩越しに投げかけながら、座席に腰かけている男がひとり。
 とうに回線の切れたふたつ折タイプの携帯電話を開いたまま両手で握り締めている。列車の揺れとは違う振動をイライラと膝が刻んでいるが、自分でも気づいていない。
『だからぁ』
 男の内心の混乱に対して、ついさきほど聞いた舌足らずな彼女のセリフが脳裏で繰り返す。
『学生時代のオツキアイなんて、そういうもんでしょ。あたし達もう充分楽しんだわ。知ってるじゃない、うちの親、ウルサイの。ま、あたしも今回は従っておこうかなって。お見合い相手のカレのほうが、ヤスシより結婚に現実的なわけ。女と男の適齢期って違うの。もう何度もかけてこないで』
 有楽町ー、の車内アナウンスが耳に届き、男は反射的に立ちあがった。
 10年だ。10年、彼女と恋人同士だった。ずっと、このまま……少なくとも、自分は本気で彼女と結婚するつもりだった。
 大学卒業後は安定した収入を得られる職に就き、3年、いや1、2年したら。はっきりと約束していたわけではない。しかし、なんの不満もなくつきあってきたはずだった。
 何が? どこで?
 黙々とホームから階段を降りる。深夜のこの時刻、呆れるほど客の数は多い。まだ少し早い、春を先取りしたパステル調のファッションに身を包む女性客の姿を視野に留めながら、男はにがにがしく咽喉にせりあがってくる問いを飲み下す。
 黒い皮ジャンのポケットから切符を取りだそうとし、やっと気づいて携帯電話を胸にしまった。
 有楽町駅の改札口を足早に通りぬけ、右の出口から、きょろきょろと落ち着かない視線を飛ばしながら歩いていく。
 表通りへ出ればマリオンビルの電飾も鮮やかに、腕を組んで歩くカップル達が、まだまだお楽しみはこれからだと真昼のテーマパークを行くような笑顔で闊歩している。
 しかし裏通りへ入れば一転、いったい結界が張ってあるのではないかと思われるくらいに暗く、静かである。
 東京から品川を結ぶガード下。せいぜい事情通のハイヤーが利用しそうな細い道には、それでも横断歩道があり、魍魎の棲まう闇のなかで信号が、ぽっかりと人工の輝きを放つ。
 通りの左は廃墟と化したオフィスビル。右手はどこまでも、上を走る線路に沿って暗い壁が続いている。
 歩く者は男のほかに誰もいない。
 足音が反響し、アスファルトを這う影にまとわりつく。
 冬の名残りと春の予感の混じった風が、男のむきだしの耳をかすめる。短く刈りこんだ茶パツが、細面で色白な容貌に似合っている。華奢な体つきにボブソンのストレートジーンズが貼りついて見える。濃紺のストーンウォッシュ。
 上下とも彼女の見たてで、お気に入りのコーディネイトだった。最後のデートにも着ていた。正確には、電話で別れを告げられる前日の服装である。
 あの日まで彼女は俺のものだった。男は確信している。
 翌日の晩。電話に出たあのとき、この服を着てさえいれば、おそらく、きっと……。
 電話ではどんなかっこうをしていようと関係ないであろうとは、彼には思えなかった。
 男は皮ジャンのポケットに両手をつっこみ肩をすくめつつ、左右をせわしなく睨みつけながら、街灯もほとんどない路地をつき進んだ。
 大学時代の友人が遊びにきて、満足に食事も摂れずにいる男の落ち込みようを見かねて教えてくれたのだ。
 いや、噂なんだけどさ、と前置きして。
 噂だろうが迷信だろうが、その話は男にとってあまりにも魅力的に過ぎた。恋を失いたくない者は、わらにもすがる。
 目当てのものは。
 不意に辺りの静寂がすべて音に反転したかのような轟音が男を襲った。
 虚を突かれ、猫に怯える鼠の心境で立ちすくむ。頭上を走る電車が白い閃光を散らし、画像のないフィルムの早送りみたいに網膜を焼いて、視力を奪った。レールの残響に聴力も失ったが、一瞬のことだ。すぐに男は我に返った。
「脅かすな」
 醜態を引き剥がす為に吐き捨て、2、3度まばたきすると、その視界にさっきまでは見えなかった乳白色の光が射した。
 通りから右へと折れる、ガードをくぐるトンネルの奥。
 深呼吸のあと、こわごわ覗きこみ、男はゴールを見つけた。
 走り寄りたい衝動とは裏はらに忍び足で近づく。
 すすけた年代物のトンネルの右の壁に、同化しかけている一塊の物体。はかなげな薄黄色い行灯の明かりに、目を凝らせば浮かび上がる5本指の絵図と『手相』の筆文字。
 男は離れた場所から四角い箱を凝視した。まわり込み、振り向いて、ようやく『櫻井陽楓』と書かれた側面を認めた。
 緊張に顔をこわばらせながら、やっと両手が乗せられる程度の広さしかない卓の前に立つ。
「あ、のう」
 声が出ない。乾いた唇をなめ、男は出ない唾を呑みこんだ。
「えっと、俺」
 手相見は無言で反対側に鎮座している。目の前の客を無視する気なのか。そもそも、こんな滅多に人の来そうもない場所でじっとしているなんて商売を放棄しているとしか思えない。まさかサボって寝こけているのかと男が不安を抱き始めると、唐突に嗄れ声が応じた。
「お悩みですか」
「は、はい、」
 頷いた勢いで、足元にあった平たく固いドーナツクッションの椅子をまたぐ。鉄の四本足のすきまから冷気が這い登り、男の背筋に悪寒がはしった。
「実は俺、彼女に……」
 くちごもる。さすがに簡単には切り出せなかった。
「ええ」
 相手は大袈裟に小さな頭を上下させた。ゆっくりとした動作だったが言葉に間延びした印象はない。
 行灯の弱い光は懐中電灯の役を果たせず。暗がりに慣れた男の目にも、相手の姿どころか正面にあるはずの顔すら判然としなかった。
 ただ、骨と皮ばかりになった手だけが卓上にさしのべられ、それは枯れ枝か何かのオブジェに見えた。
「手前には分かりますとも。さあ、御手を拝見いたしましょうか。お名前は?」
「鹿児恭」
 初めて安堵の心地で男は両手をさしだした。生年月日を聞かれ、素直に答えたあと、老人の言葉を待たずに話しだす。
「聞いたんだ、噂を。どうしても、このまま終わりたくないんだよ。アイツなしじゃ俺はやっていけない。でも続けるには、今からじゃ無理で、続いてるときに戻らなきゃ駄目で、だから……呪文を、俺に教えてください」
 もしそばで聞く者があれば、男の顔をまじまじと見つめていたことだろう。首を傾げ、苦笑混じりに。
 老人は数秒沈黙のあと、おごそかに息を吐いた。
「あんたには、教えてあげるのは本意じゃない。けれど、これも運命ということでしょうよ」
 老人の片腕がそっと背後を示した。最初からそこにあったのか、唐突に今あらわれたような、自転車1台やっと通れるくらいの狭い道が右の脇からのびていた。誰の姿もない。
「向こう側へ歩きながら、『レドモヨンカジ』と1度だけ唱えますのよ。そうするとねえ、戻りたい時代に戻れますのさ。過去のご自分のいつかに」
「あっ、ありがとう、おじいさん。これで足りるかな」
 男は椅子を蹴って立ち、ポケットから折れた紙幣をとりだすと1度てのひらで卓に押さえつけ、後ろも見ずに駆けだした。
「おじいさんじゃあないんですけれどねぇ。見料は充分すぎるほどですとも」
 残された老人は、闇に紛れて消えていく男の背中に告げた。
「これで50ぺんちょうどになりますか……お幸せに」
 男の耳には、もう届かない。
(2011年08月10日 20時19分)