白カモメの翼の下で(6)

■地下鉄で考えた

 街を歩いていると、韓国の女の子たちが、とってもいい笑顔で手をつないでいるのをよく見かける。
「もしや!」
 などと不謹慎な事を想像しては、いけない。
 仲がいいだけなのだ。
 たとえば、女子大生が寮に入ると、後輩をトンセン(妹)と呼び、先輩をオンニ(姉)と呼んで絶えず助けあう。こうした文化が生んだ、濃密な人間関係をしめす韓国風正しい姿なのである。
「でもですね」
 奥のサラダバーから戻ってきた、麻木さんは大盛りの皿をすうっとぼくの目の前に置きながら言った。
 龍頭山公園(ヨンドゥサンコンウォン)を出た、ぼくたちは、釜山劇場の近くにある、ピザハットに入って韓国の友情についての話をしていたのだ。
「親密すぎるからかもしれないけど、人のモノは自分のモノといった、日本人には理解し辛い困ったトコロもあるのです。勝手にルームメイトの机の引き出しを開けて、手紙や写真を見たり、カセットテープを持ち出すのも、うーん、ですよね」
 麻木さんは、小首を傾げた。
「でも、ちゃんと返してくれるんでしょう?」
「そうですけど、最初はびっくりしました。ここでは、あたりまえの事なんだ、と納得するまでには結構時間がかかりましたもの」
「友情あふれる、男どうしが手をつないで歩いたりはしないんですか?」
「あんまり……」
 麻木さんは、ぼくのヘンな質問に困った顔をかえした。
「で、でしょうね」
 ぼくは、うわずった声を出しつつ、レタスにフォークを突き刺した。
「う、うまそうだなあ、これって」
 広川太一郎の声で言った。
 数年前、宮崎の『NEW WAVE』というサーフショップでボードを選んでいたら、手をつないで(しかも指までからませちゃったりして)店に入ってきた、二人の男の子の熱々ぶりに目が点になってしまった事がある。
 あまりにも堂々としていたからである。
 サンフランシスコの、そういった方面の方々が住む街で、男どうしのカップルがあたり前のように肩を寄せあって歩く姿や、立ち止まってキスする風景などを見てきたばかりだったので、「ややや! 宮崎もずいぶん進んできちゃったりしたのね!」と、感動したのでありました。
「ところで、男女が手をつないでいる、といった風景も、女の子どうしのそれに比べたら、少ないような気がしますけど」
「男の子と女の子で手をつないでいたら、もう、将来を誓いあった仲という事です」
 麻木さんはそう言うと、ウーロン茶をストローで少しだけ飲んだ。
「なるほど! 誰とでもすぐに手をつなぐ、今どきの日本の若者に比べたら、なんか『真実一路』ってカンジで微笑ましいですね」
「でも、韓国の女の子はたいへんみたいですよ。適齢期をちょいと越えて、まだ独身だったりすると、親族の冠婚葬祭にも出る事ができなくなります」
「わあ! ひどいなあ。それは、あせっちゃいますね」
「そうですね。……あのう、宇佐美さん。本当にもう案内は必要ないんですか?」
「はい」
 ぼくは、きっぱりと言い「ごめんね」と、謝った。
「なぜですか? バックの事もあるし、私は宇佐美さんにお礼がしたいと思っているのですけど」
「ぼくはドタバタ走っただけ。バックを取り返してくれたのは、カメラおじさんだよ」
「普通の男の人だったら、犯人を追いかけたりしませんよ」
「そうかなあ。そうでもないと思うよ。とにかく、後はなんとか一人で探検してみます。韓国語がまるっきりダメで、はっきり言って右も左もわからない状態に近いから、麻木さんがいると心強いのだけど、甘えていたら本当の韓国を見る事ができない、と思うのですよ。それに、いつ援助交際と間違えられて通報されるか、ってもう気が気じゃなくって」
 ぼくは、むふっと笑って、麻木さんを見つめた。
 麻木さんは、真面目な顔をしていた。
「わかりました。それじゃあ、ルームメイトにちょっと電話をしてきます。ああ、それから、ピザが来ても、私の分まで食べないようにお願いします」
「はい、はい。わかりました」
 麻木さんが席を立つと、ぼくの正面に二人の女の子がいた。
 つまり隣の席の事なんだけど、彼女たちは真向かいに座らずに、並んで座り、しかも肩を寄せあっているのだ。
「うーむ……」
 ぼくは、心の中で唸った。これも、韓国風友情の姿なのだろうか。
「うーむ……」
 再び唸ると、かくんと首を傾けて、隣の女の子の肩に頭をのせていた女の子が伏せていた目をふと上げて、垂れた前髪ごしにぼくをまっすぐに見つめてきた。10代後半の挑戦的だけど、澄んだ瞳をしていた。
「やや……」
 ぼくは、思わず後ろを振り返ってしまった。
 何か彼女の興味を引くモノが、ぼくの背にあるのか、と思ったのだ。
 ぼくが、姿勢を戻すと、彼女は野性的な瞳を崩し、ひらりと笑ってみせた。
「なんだ、なんだ……」
 彼女が見つめているのが、自分であるという事を確信した、ぼくは激しく動揺してしまった。
 壁を見たり、通りを見たりして、訳もなく宙を泳がしていた、ぼくの視線をとらえるたびに、彼女はなんとも情熱的に微笑むのである。それでいて、媚をうっている雰囲気は微塵もなかった。
 この奇妙なにらめっこは、麻木さんが席に戻ってくるまで続いたのだ。
 彼女は、麻木さんの背中を上目づかいに見ると、ぷいっと横を向き、「今までのなーし!」といったカンジで隣の女の子と密やかな会話を楽しみ始めたのであった。
 ぼくは、なんだかほっとして、ひとつ大きなため息をついた。
 にらめっこをしている時、彼女はただあの不思議な空気を楽しんでいただけのような気がするのだ。たとえ、ぼくが何らかのアクションを示したとしても(しないけど)、きっと彼女は無視しただろう。そんな気がする。まあ、とにかく、不思議な女の子だった。

   *

「がんばってください」
「宇佐美さんも」
 ぼくたちは、ピザハットの前で短い言葉をかわし、握手をして別れた。
 雑踏の中に、ふわふわと消えて行く、麻木さんの後ろ姿が寂しかった。
 どたばたと過ぎた短い時間だったけど、ぼくの心の中に麻木さんはぐさっとくいこんでしまっていたのだ。
 どんなシチュエーションでも、別れは、やっぱり辛い。
 陳腐な表現だけど、ぼくは後ろ髪を引かれる思いできびすを返して、地下鉄にむかった。

 地下鉄の両替機は、ハングルを知らない者(ぼくのことだけど)にとって非常にまぎらわしい。
 日本のクスリ屋さんの表に置いてある、スキンの自動販売機サイズの機械が二台並んでいて、片方はなんとサッカーくじの販売機なのだ。
 もしも、日本のスキンの自動販売機の横に、似たようなチョコレートの自動販売機を置いたとしたら、せっぱ詰まった若者の二割と酔っぱらいつつ鼻の穴ふくらませたおじさんの三割が、スキンと間違えてチョコレートを買ってしまうに違いない。
 ぼくは、落ち着いて機械を確認すると、1000ウォン紙幣を入れた。
 韓国の両替機の感動的なトコロは、かなりボロボロなお札でも認識してくれる事だ。
 日本の自動販売機や両替機なんかじゃ、こうはいかない。お札が少し折れ曲がっていただけで、機械は『あーかんべえー』をするように、お札を吐き出すもんね。後ろに人が並んでいたりすると、もうたいへん。『あーかんべえー』にむっとする前にあせっちゃうよね。わなわな震える手で、再度お札を入れると、また『あーかんべえー』されちゃったりして、ものすごく情けないキブンが心の奥底に果てしないとぐろを巻いていくのであります。
 ぼくは、韓国の両替機を見つめながら、考えた。
 きっと、両替をしようとしして、サッカーくじを買ってしまう日本人が必ずいるに違いない。
 ぼくは、ぐふふと笑った。
 しばらく手帳にメモをしながら、両替機を利用する日本人を観察していると、厚底ミニスカートの三人組がくじを買って「まじー?」とか「うそー?」とか叫びはじめた。
 まじでほんとにくじなのだ。
 当たるといいね。
 さて、地下鉄の料金は、1区間500ウォン、2区間600ウォンだ。
 1区間とは次の駅という意味じゃなく、切符自動販売機にある路線地図を見て目的地が何区間にあたるかを確認して、切符を購入するのである。まあ、どちらにしても日本円にして、50円、60円の世界だから本当に安い交通費だと思う。
 ホームの片隅には、一人暮らしの学生の部屋などにあるような、チープな素材を使った本棚がどーんと置いてあって、ごついハードカバーのでかい本が「まいったか?」ってカンジで並んでいる。
 日本の地下鉄のホームのベンチなどで、電車が通過する度に「あ……、いや……」と、あらがってもページをぱらぱらと容赦なくめくられる、週刊誌などとは格が違うのだ。
 しかし、そのごつい本を手に取って読もうという人はいない。みな「まいった、まいった」と、つぶやきつつ、足早に本棚の前を通りすぎて行くのであった。
 電車の各ドアの上には、「北のスパイを見つけたら通報するように」と、いった内容のステッカーが貼ってあった。シドニーオリンピックで、北朝鮮と韓国の選手団が並んで行進しても、まだまだ、現実は厳しいようだ。
 ドアのそばに立って、路線図を見上げていると、ドアが閉まる直前に飛び込んできた若者がぼくの肩にぶつかった。
 謝りもしない。
「にゃろ!」
 と、ぼくは拳を固め、若干猪木顔化しつつ振り返った。
 が、殴るどころか、睨む隙も与えず、何事もなかったかのように、その若者は、さっさとあいた席を見つけて腰をおろしてしまったのだ。
 韓国の人たちはサービス業であっても客に愛想をふりまかない、そして、人にぶつかっても基本的に謝まらない――、という友人から仕入れた情報は正しかった。
 それがあたりまえなのだ。
 怒っちゃいけない。
 しかし、その一方で電車などで立っている人の荷物を座っている人が持ってあげるといった、とても心がほっとするような習慣があったりする。もちろん、赤の他人の荷物だ。「そのまま持ち逃げされないかな」と、不安に思ったりもするのだけど、韓国の人たちにとって、荷物を持ってあげる事はあたりまえの行為なので、断ると失礼になったりするのだそうだ。
 思えば、「荷物をお持ちしましょうか?」と、いう言葉は日本のあちこちの道やバス、電車の中で頻繁に聞かれた言葉だった。
 それがいつの間にか、人と人の関係はドライになり、人の荷物を持つどころか松葉杖や身重な人にも席を譲らないステンレス製の日本人になってしまった。

 隣の車両からがばっとやってきた中年の男が、突然大きなカバンをがばっと開けて服をがばっと取り出すと、オーバーなジェスチャーを加えつつがばがば喚き始めた。
 まるで、バナナの叩き売りだ。
 この『がばっ』的モノ売りおじさんは、韓国の地下鉄の名物のひとつで、各車両を回っていろんなモノを売ってまわる人なのだ。
 おじさんたちのネタは、ミニアルバム、電卓、ゴム手袋などと結構豊富で、今日の商品はカジュアルな服だけのようだ。
 おじさんは、ひとしきり喚いた後、いきなりぴたりと口を閉じてしまった。
 短期決戦勝負のおじさんは、「あかん。こいつら買わんわ」と、判断したら押し売りする事なく、すっぱりきっぱりあきらめて、いい客を探しに素早く隣の車両に移って行くのであった。
 同じ車両の少し離れたところで、サッカーくじを買った厚底ミニスカートの三人組が、激しく身体を揺らしながら黄色い声を上げていた。
 ぼくは、留学中の一年間「大学の代表なんだから」と、帰国する事も禁止され、たったひとり韓国語の嵐の中でがんばる、麻木さんの事を考えて、少し切ないキブンになった。
(2010年06月07日 21時52分)