白カモメの翼の下で(3)

■留学生の涙

 釜山観光ホテルの1階ローピー中央に飾られたむっちり太った裸婦の彫刻と、亀たちがのそのそ這いまわっている、2メートルほどの簡素な池の右側に2基のエレベーターがあった。
 カウンターで、チェックインをすませ、カードキーを受け取った、ぼくはエレベーターのドアを開けた。
 エレベーターの中は『燃えよドラゴン』の最後の闘いに登場した部屋のような不可思議多面鏡貼りで、自分の怪しげな姿にちょっとドキドキしつつ、ブルース・リーの『あちょーポーズ』をとってみたりした。
 ようするに、ひとり旅だから退屈なのだ。
 部屋は12階。
 スタンダードを頼んでいたので眺望などあまり期待していなかったのだけど、まあ、それでも12階なのだから、最低街なみくらいは見おろせるだろう、と思っていた。
 しかし、部屋に入って、背の高い遮光カーテンを「えいやっ!」と引くと、すぐ隣のビルの屋上を肩にシーツをかけてのっそり歩く、ランニングシャツ姿のおじさんといきなり目があってしまったのだ。

「ぐふ……」
 お互い、約2秒、かたまる。

 5年ほど前、某ラブホテルの全ての部屋の内装撮影を頼まれた事がある。
 よく晴れた朝、男のアシスタントをひとり連れて、ぼくは撮影に出かけた。
 たくさんの機材を持って最初の部屋のドアを勢いよく開けると、ドアの真正面にあった大きな窓が、換気のためか全開になっていて、ぼくたちふたりは、たまたま隣のビルの工事に来ていたおじさんたちと、いきなり窓ごしに顔をあわせてしまった。
 あの時も、「う、うわっ!」と、呻いて固まってしまったのだった。
 それから、あわてて窓を閉めたのだけれど、後の祭り。
 きっと工事のおじさんたちは、「男ふたりでラブホテルに入っている!」、という確かにまぎれもない事実に「ナニしてる!」という、これまたりっぱな尾鰭をつけて、いろんな人に言い広めたんだろうなあ、と思ったりした。

 ああ、そんな悲しくやるせない事件を思いだしたのだ。
 我にかえった、ぼくはややうろたえつつ、カーテンを素早く閉め、着替えが入っているだけのカバンを椅子に放り投げ、「ほいさっ!」と、冷蔵庫を開けてみた。
 よく考えてみたら、昨日の夕方からまともに食事をとっていない事に気がついたのだ。
 ビートル?世号の中でバターポッキーを食べただけだもんね。
 が、冷蔵庫の中では、透明なボディーを瑞々しく輝かせた、ミネラルウォーターの入ったペットボトルがたった1本、寂しくぼくを待っていただけであった。
「でも……ね、君じゃないのよ……」
 ぼくは、ため息をつきつつ冷蔵庫のドアを静かに閉めた。
 ふと、横を見ると、サイドテーブルにルームサービスのメニューがさりげなく置いてあった。
「これ、これ!」
 ぼくは、期待に胸と鼻の穴を膨らませ、がばっと広げてみた。
『ROOM SERVICE』と書かれた下に『ルムサービス』と日本語が印刷されている。
「脱字じゃないか! なんだあ、こりゃあ!」
 などと、テレビドラマに出てくる刑事のような顔をしつつ、続きを厳しくチェックすると、おそろしく誤字脱字だらけのメニューなのだ。
『トーストとバターヌはジャム』
『メシカンサラダ』
『コンビーションサラダ』
『クラタン』
 書き出したら、きりがない。
 料金は、日本やアメリカのホテルのルームサービスに比べて、遙かに安い。しかし、怪しい、怪しすぎる。ちゃんと、正しい料理が部屋に運ばれてくるのだろうか。
 『グラタン』と、思って、『クラタン』を注文したら、クラッカーにのったタンが出てくるかもしれない。
 いや、そんなことはないと思うけど、まあとりあえず、外はまだ明るいんだし、正しく食えるところを探すべきだ。
 ぼくは拳を突き上げ、足を踏みならし、槍を携えると、猪木の顔で愛馬『パンノミミ』に跨ってホテルを飛び出した。
 ウソである。
 さて、ホテルを出てあたりを見回すと、なんと食えるところだらけだった。看板に日本語で表示されている店もたくさんあって、どこからか漂ってくる、肉の焼ける匂いに鼻と胃をくすぐられ、「もういてもたってもいられんわい!」と、いうキブンにさせられてしまった。
 ホントである。
 しかし……、である。日本語が通じる店は確かにラクチンなんだけど、韓国人用と日本人用と二つのメニューが密かにあったりするのだ。大きな声じゃ言えないんだけど。
 どこが違うのかと言えば、ズバリ料金が違うのである。
 日本円で300円も出せば、ぼくのような大食漢でもおなかいっぱい食べれる、っていうのが韓国のメシ屋のイメージなんだけど、日本人用のメニューだとその倍以上お金を出さなくちゃいけなかったりするのだ。
 ぼくは、「お兄さんよってらっしゃいよう」と、艶めかしく声をかけてくる、きれいな方、きれいじゃない方々を横目に見つつ、あたりを少し歩きまわって、ハングルだけで書かれた看板を掲げている、食堂に「よっしゃ!」と、元気よく入ったのである。
 4人かけのテーブルが壁沿いに4つ置かれただけの小さな店だ。
 レジさえない。
 入り口付近に、銀色の手提げ金庫を大儀そうに抱え、扇風機の風に風鈴のように小刻みに揺れるおやじがいるだけなのだ。
 メニューは、壁のハングル文字のみ。
 あいやー! 訳わからん。
「うーん……」
 ぼくは、腕を組んでひとしきり唸った。
 こうゆう時は、ちょっと恥ずかしいけれど、『あれちょうだい!』戦法でいくしかない。
 隣のテーブルを見ると、学生風の女の子が麺をおいしそうにすすっていたので、ぼくはこどもの気分でそれを指さし、心の中で「あれちょうだい」と、呟いた。
 以心伝心。
 言葉に頼らずとも、心さえこもっていれば気持ちは通じるものなのだ。
 たぶん。
「カルグックス?」
 店のおばちゃんが聞いてきたので、とりあえず「ネー(はい)」と、こたえた。
「果たして、あの麺が出てくるのだろうか?」
 ヒヤヒヤしながら待っていたら、数分後きちんと、隣のテーブルと同じ麺がやわらかな湯気に包まれて出てきた。
 しかも、おまけのようなキムチもさりげなくついているではないか。
 箸は、テーブルに備えつけられている箸入れの中から一組を取り出して使う。
 スプーンやフォークのように、韓国では箸もステンレス製である。
「お! うまい!」
 日本で食べる、ワンタンメンのような味だ。
 一口食べて、ぼくはおばちゃんに「サイコー!」と、いう気持ちをたっぷり込めた笑顔をむけた。
 おばちゃんは、はにかみながら何か言ったけど、ぼくには全然わからなかった。
 わからないので、とりあえずへらへらしていたら、隣の女の子が口を開いた。
「おいしいでしょう、ですって」
「あれ? 日本の方ですか?」
 ぼくが聞くと、「留学生です」と、彼女はよく通る声でこたえた。
 日本から訪ねてきた、友人を国際ターミナルまで送っての帰りなのだそうだ。
 肩までの栗色の髪を耳にかけた、小柄な女の子だった。ブリーチアウトされたジーンズに紺のVネックのサマーセーターが、見事に韓国風ファッションだ。
「ぼくも今着いたところなのですけど、ビートル?世号はかなり揺れましたよ。お友達もたいへんだと思います」
「でしょうね。台風が近づいてますから……」
 彼女は寂しそうな声でそう言って、目を伏せた。
 日本語がわからない、店の人たちから見たら、ぼくが何かひどい事を言って、彼女を沈ませている、という風に映っているかもしれない。
 ぼくは、あわててビートル?世号の中から見たカモメの話しをした。
「近くに陸地なんかない、荒れはじめた海の上でしっかり翼を広げて、一羽の白カモメが波のてっぺんをすれすれにぐんぐん飛んでいたんですよ。仲間からはぐれたのかなあ。でも、すごく堂々としていました。ぼくの故郷の宮崎には、カモメが飛び交う、『小戸橋』という橋があるのですけど、バイクでそこをゆっくり流すと、カモメがおもしろがって、並んで飛んでくれるんです。そんなカモメたちの事を思い出して、ちょっとジーンとしちゃいました」
「すてきですね。カモメは釜山の鳥なんですよ」
 彼女は、少し首を傾げて言った。
「ああ、そうなんですか。もしかしたら、あのカモメも釜山から飛び立ったのかもしれませんね」
「日本にむかって飛んでいるのかなあ。私も日本に帰りたいなあ……」
 言った、彼女の瞳から、はっとするほど大粒の涙が溢れ、頬を伝った。
 いかん、いかんぞ。ますます、ぼくがいじめっ子に見える。ぼくは、すっかり取り乱してしまった。
「い、いけない……。ターミナルでのお別れをまだひきずってるわ。ダメダメちゃんね、わたし!」
 彼女も店の人たちのスルドイ視線に気がついたのか、手の甲で涙を拭い、すぐに笑顔を浮かべてくれた。
 ほっとしたぼくは、カルグックスのスープをぐいっと飲んで「うまいなあ」と、少し大きな声で言った。
 彼女は、くくっと喉の奥で少し笑って、椅子の位置をさりげなくかえた。
 ぼくたちは、話しが弾んだ。
 そうして食べる、カルグックスは、しみじみとうまかった。
 ぼくが最近の日本について話し、彼女は韓国の人や風習について、そして韓国語の失敗談を話してくれた。
「電話をかけていて、話し終わって相手に『切ってください』って、いう事を韓国語で『ドゥロガセヨ』って言うんですよ。ところが、私ったら『ドラガセヨ』って言ってしまって……」
 彼女は、『ドラガセヨ』の部分だけ声をひそめた。
「『ドラガセヨ』って、どうゆう意味なんですか?」
 ぼくもつられて、声をひそめた。
「『死んでください』って、いう意味。ひどいでしょう? 私、電話の相手に死ねって言ったんです」
「わあ! そりゃあ、たいへんだあ」
「まだ、いっぱいあるんですよ」
「聞きたいです。続けて! 続けて!」
 ぼくは、身をのり出した。
「先生のスーツがかっこよかったから、かっこいいと言いたくて『マシッスヨー』と、言ったら、先生に『スーツは食べれませんよ』と、たしなめられちゃいました」
「どうしてですか?」
「『マシッスヨー』は『おいしいです』っていう意味なんです。『かっこいい』は、『モシッソヨー』が正しいんです。発音、似ているでしょう?」
「そうかあ。韓国の人に『モシッソヨー』と言われたら、おじさんとしては喜ばなくちゃいけませんね」
「誰がおじさんですか?」
「ぼくです」
 ぼくは、きっぱりと言った。
「そんなあ」
「でも、そうなんですよ。悲しい事に」
「あ、そうそう。韓国語では、おじさんの事を……。いえ、おじいさんに近いのかな。『ハラボチー』といいます」
「腹がぼちーと垂れ下がってきたら、おじさんなんですね」
「大丈夫そうですね?」
 彼女は、ちらりとぼくのおなかを見た。
「いやあ、あやしいもんですねえ」
 長嶋監督の声で腹をさすると、彼女は声を上げて笑った。
「いつまで、韓国にはいらっしゃるんですか?」
 彼女は、肩を震わせながら言った。
「明後日には日本に帰ります」
「短い滞在なんですね。ご案内しましょうか? 迷惑じゃなかったら」
「い、いえ、迷惑だなんて、とんでもない」
 ぼくは、素早くこたえ、彼女は柔らかく笑いながら立ち上がった。
(2010年06月07日 21時46分)