少女の恋

 ぬるい。
 身体を動かすと臍の辺りがスースーと寒い。
 手を伸ばせば追い炊きボタンは目の前なのに、それすら気だるい。
 腰の位置をずらして肩まですっぽり潜り込んで目を閉じた。
 一体何をしているのだろうか。
 先ほどから同じ思いが頭の中を堂々巡りしている。
 靄のかかった頭で少しまどろんだ。
 どれくらいの時間が経過したのだろうか。
 額にうっすらと汗をかいた。

 思いを吹っ切るように湯船を出て、栓をひねった。高い位置にかけたシャワーから、お湯がほとばしった。ハーブ入りシャンプーを乱暴に振り掛けて、突っ立ったまま両手で毛髪をグシャグシャにかき回した。泡はだらしなく下へとつたう。ついでに身体中にそれを塗りたくって洗い流した。いつもならそんなことはしない。今日はそれくらい何もかもがどうでも良かった。気づいたらシャワーの飛沫に、いつまでもじっと身を委ねていた。



 少し早めに家を出た。
 待ち合わせの場所まで時間は充分にあった。
 でも、心がはやって、じっとしていられない。

 今日はうんと寒い。
 夏日のような昨日に比べると、まるで真冬のようだ。
 それでも季節柄、もう皮ジャンは気が引けた。
 カシミヤの黒のノースリーブに、薄手のデニムのジャケットを羽織った。
 薄着が思いのほか体温を奪う。寒かった。
 着替えに戻ろうかと迷いながら、そのままなんとなく歩いてしまった。
 
 携帯のバイブが胸のポケットで小刻みに震え、見慣れた名前が表示された。
 電話の主に、少し遅れるからと告げられた。
 わたしはそれを快諾した。
 待たされることを少しも厭わない。
 だって、待たされることは期待であり、そして確信であった。
 その間は、空想への入り口となる。
 待ち合わせのJR桜木町駅の改札前には、様々なドラマがあった。
 待ち人の顔がほころんでは連れ立って歩き出す。
 そんなカップルをもう何十組も、目でやり過ごした。
 さすがに身体は芯まで冷え切った。
 このままでは風邪を引いてしまうだろう。
 どこかへ避難しなければ。

「今どこ?」
 遠慮がちに電話を入れた。
 どうやら近くまで来ているらしい。
 ランドマークで待つように指示された。
 動く歩道に飛び乗って、その上を更に足早に歩いた。
 何度か乗り継いで、建物に辿りついた。
 ビルの中は暖かい。ようやく震えが止まった。
 やはり今日は皮ジャンを着るべきだった。
 後悔がわずかばかり頭を掠める。

 携帯電話が再び震えた。
「どこ?」
「振り向いて」
 わたしが先に見つけて手を振った。
 ジージャン姿の彼が振り向いた。
 白い歯がこぼれた。
 ガラス越しに彼も手を振った。
 わたしは飛び切りの笑顔を返した。

 カフェテラスでブランチした後、
「これからどうする?」
 吸った煙草の煙をふーっと吐いた。
 それを鼻孔に含ませて、すっかり冷めてしまったカフェオレをわたしは一口啜った。少し煙草の味がした。

「海が見たいわ」

 横浜横須賀道路へ上がった。
 雨が激しくフロントガラスを叩いた。
 霧も出てきて、視界が一層悪くなった。
 海を眺めるには悪天候だけど、忙しなく動くワイパー越しに見る荒れた海も好きだった。
「でも海は止しましょう。それより葉山に行かない?」
「葉山?」
「そう、つつじが満開らしいのよ」
 仕入れたばかりの情報だった。

 道が混み始め、流れに沿って右折すると、そこはつつじの海だった。
 幾重にも折り重なった暖色のグラデーション。
 晴れていたら最高なのに、生憎の雨が恨めしい。

「降りてみようか?」
 車の外に出た。
 横殴りの風雨が傘をさした二人に容赦なく吹き付けた。
「晴男じゃなかったの?」
「雨女には負けるでしょう」
 顔を見合わせてぷっと吹き出した。

「お腹すいたわ」
 ブランチを遠慮したわたしに突如、空腹が襲った。
「ねぇ、あたしの知ってるお店に行かない?」
「お、いいね」
 キュルルとエンジンをかけて、アクセルを踏んだ。
 横顔をじっと見た。気づいて彼がこっちを向いた。
「なに?」
「ううん、何でもないけど」
「だって、じっと見てるから」
「ちょっとね、良い男だなーって」
「馬鹿」
 白い歯を見せた。やはり哲也の笑顔が好きだと思った。

「その踏み切りを渡ったら鎌倉プリンス?」
「そうだよ」
「じゃそこを渡って」
 車は右折し、江ノ電の踏み切りを越えた。
 坂道を登りきったところに、行き付けの店はあった。
 時間が早いせいか、客はほとんど居なかった。
 海が時化てなければ良いのだけれど。
「生シラスある?」
「ありますよ」
 適当に見繕った海の幸がテーブルに並んだ。
 今夜で何度目だろうか。会うたびにどんどん親しさを覚える。
 何杯目かの日本酒で、わたしは良い気持になった。
 哲也の話しは面白い。
 次から次へと目まぐるしく話題は切り替わった。
 ようやく話題が途切れた頃には、店に入って三時間を経過していた。
「河岸、変えようか」
「そうね」
「どっか静かに飲めるとこ知ってる?」
「桜木町まで戻ればね」
「じゃ戻ろう」

 雨に濡れたアスファルトは黒い。
 まるで道路に車ごと吸い込まれそうだ。
 左ハンドルの助手席から海を見た。
 漆黒の海が唸っている。
 鎌倉を抜けて朝比奈から横浜横須賀道路を戻った。

 紅葉坂を登ると、わたしのお気に入りのバーがある。
 ホテルの10階にあるそのバーからは横浜港が一望できた。
 今夜はやけに混んでいる。窓際の席は全部塞がっていた。店の中央辺りから、まるでスクリーンでも見るように、海に向かって並んで座った。ライトアップされたベイブリッジがピンボケ写真のようにうすぼんやりとしている。ここから見えるすべての景色が、わたしは好きだった。この前はいつ訪れたのか、誰と来たのかも思い出せないくらい、久し振りだった。

 ソフトドリンクを彼が頼み、わたしはいつものドライマティーニ。良い気持だけれど、酔ってはいなかった。哲也はアルコールを嗜まない。だから醜態を見せる訳にはいかないのだ。酔いたい気持を必死で抑えながら、本当はうんと酔って少し彼を困らせてやろうかと邪悪な気持になった。酔わないと本音を出せない窮屈なわたしの箍は、緩やかにそして少しずつ外れ始めていた。

 ドライマティーニをお替りするたびに、饒舌になった。哲也がどんな顔でわたしを眺め、どんな目で見ているのか等はすでに意識の外となった。回らない舌で、訴えた。哲也と出会ったことがどれだけ幸福であるか、そして生きていたいと思う糧になっているのかを繰り返すばかりだった。

 突然、ストンと落ちた。
 真っ暗なようで真っ白な穴の中。
 いや、穴の中ではなさそうだ。
 巨大なスクリーンがどこまでも伸びている。
 時折、記憶の断片がフラシュバックした。
 
 冷ややかな目で男がこっちを見ている。
 何かを叫び、男はくるりと背を向けた。
 慌てて追いかけた。
 手が届かない。
 距離が縮まらない。
 その背中は点になり、やがて闇になった。
 
**

 残像がリアルだった。
 先ほどから何度もその記憶を反芻していた。
 男は哲也に違いなかった。
 わたしなら、こんなオンナは鬱陶しいから。
 わたしなら、こんなオンナは重いから。
 わたしなら、こんなオンナは楽しくないから。
 でも、わたしなら、こんなオンナを少しだけ構ってやりたいと思うけど…。
 哲也は去っていくだろう。

 訳の分らない後悔が、意識の海を漂った。
 もう二度と会うこともない哲也の白い歯並みが浮かんだ。
 たった夕べのことなのに、うんと遠い昔の出来事のような気がした。
 恋とも呼べない想いがポロリと落ちて、湯船の中に紛れ込んだ。

 西日が水面を這い、乳房の上でゆらゆらと揺れた。

 手を伸ばして追い炊きボタンを押した。
 轟音と共に、足元辺りがにわかに暖かくなった。
 ようやく額にうっすらと汗がにじんできた。

 今は何もしたくない。
 前を向こうとする気力すら萎えてしまった。
 多分、万年少女の最後の恋だった。

 また一つポロリと落ちて水中に紛れ込んだ。
(2010年06月22日 16時05分)