川内村ざんねん譚(10)

 アサキさん

 アサキさんは肉しか食わない。偏食もたいがいにせいよ、という感じだが、本人は脂ぎった笑顔で幸せそうだった。人の家にメシを食いに行くときは、たっぷりと肉を買い付ける。とても食べきれない量なので他の人も呼ぶことになるのだが、客人も手ぶらでは来られないので、一升瓶をぶらさげて来たりする。これまた、とても飲みきれない。

 そんなアサキさんは、この地域にあって、震災を知らずに生きた最後の人となった。アサキさんが亡くなったのは、東日本大震災の地震を引き起こすナマズが、そろそろ目覚めようかという2011年の2月末のことだった。

 命日はいつだっけ? と近所のツルさんやみっちゃんに聞いてみたが「いやー、忘れちゃったな」とあっけらかんという。このあたりはご近所つきあいは親密で濃いけれど、誕生日まで知っている関係は少ない気もする。
 年の差は、わりとみんな把握している。いっしょに学校へ行っていれば、聞かなくても知りえる情報だからだろう。誕生日は、本人に聞かなければわからない。命日もそれと同じようなものだろうか。
 ちなみに年上年下は、この界隈では大きい小さいと表現する。特に方言ではないのだろうけれど、最初はちょっととまどった。逆に今では、なんで戸惑いを感じたのかよくわからない。標準語ではなんというんだろう。大きい小さいは簡単明瞭で使いやすい。

 ともあれアサキさんは、2011年2月に、脳溢血で亡くなった。61歳だった。倒れてから意識が戻ることなく、1週間ほどで鬼籍に入った。軽くはないと聞いていたから、帰ってくることはないと覚悟はしていたけれど、ほんとうにそのまんまになってしまった。

 亡くなったと聞いて、初めてお家へお邪魔した。いつも見かけていた県道からちょっと上がった高台の小さ目の一軒家で、いざ上がってみるとアサキさんの家だという感じはしなかった。
 村から出ていったご兄弟もいらしたけれど、通夜の席を埋めていたのは、地元のみなさんだった。家族をさしおき、顔を見知ったみなさんが「まぁ休め」とぼくを家にあげ、コップを用意し、酒を注いだ。地域のみんなは、意外なところで親戚関係があるのだが、そうではなく、彼らは小学校からの同級生とか、ただのご近所とかの関係だった。遠い親戚よりも近い友だちが、ここでは日々の暮らしを支えている。

 その座には、アサキさんの名前が書かれた酒のボトルが置かれていた。行きつけのバーかなんかにキープしていたボトルみたいに思える。

「それ、呑み屋にあったんじゃないぞ、ふつうの家にあったんだぞ」

 ボトルを気にしていたら、同級生が気がついて教えてくれた。アサキさんはキノコや山菜をとるのが好きで、収穫があるとご近所へ振る舞いに出かけた。そうして、しばらくお邪魔して飲む。アサキさんの、そんな立ち回り先にはアサキさん専用のボトルがあって、そのボトルを呑んでいったということだ。
 主が亡くなったので、ボトルは持ち主の元へ帰ってきた。とはいえ、もう飲む人はいないのだから、通夜や告別式で飲んでしまえ、ということらしい。焼酎を飲んでいる姿はよく見たけれど、そのボトルはちょっと高級なウイスキーだった。

 アサキさんの、キノコや山菜をとる腕前は一目置かれていて、気前よくあちこちに振る舞うので、本人の腕前以上に評価が高かったのかもしれない。
 でも、キノコのシマは絶対にナイショなのだ。ご近所さんはみんな仲がいいけど、どこでキノコがとれるのかは、仲良しの友だちにも夫婦にも親子にも教えない。誰かにこっそりとでも言ったが最後、きっとすぐにみんなに知れ渡ってしまうにちがいない。

「アサキあんにゃから、キノコの場所、聞いておいたかい?」

 年長者のことを、あんにゃという。兄さんという意味だが、村の中心部では、この敬称には敬意のかけらもなく、むしろ能無し兄さんみたいなニュアンスがあると聞いたことがある。ほんの10kmほど離れているだけだが、ずいぶんちがうものだ。うちのあたりであんにゃと呼ばれれば、多少は尊敬の念が含まれる。このときアサキあんにゃと敬称をつけて呼んだのは同級生だから、接尾語の「兄」みたいな意味も、少し含まれていたのかもしれない。
 少し、と遠慮して言ったのは、このあたりの人付き合いは、いつも悪口ばっかり言っていて、表面的には尊敬があるとは思えないからだ。でも、心の中ではもう少しやさしいことを考えているから、世の中のふつうとは真逆だ。

 アサキさんは脳卒中で倒れてから、一度目を開けたとか開けなかったとかで亡くなってしまったので、キノコの場所を聞けた人などいるわけがない。アサキさんのキノコ畑は、アサキさんとともに永遠のなぞとなった。

「ありゃー、失敗しちゃったなぁ。アサキあんにゃのキノコ、食べられなくなっちゃったなぁ」

 アサキさんの残していったウイスキーで、アサキさんを肴に、同級生たちは盛り上がる。奥の部屋には、アサキさんが眠っている。台所では、親兄弟が静かに話をしている。
 飯を食い、酒を飲むのも日常。キノコをとるのも日常なら、人の生き死にも日常だ。ひとの死が悲しくないわけはないし、とても残念なのだが、悲しんでも残念がってもアサキさんは帰ってこない。アサキさんを肴に酒を飲めば、少しだけアサキさんが戻ってくるような気がする。

 アサキさんはの肉好きっぷりは、健康を害さないか心配になってしまうほどだったけれど、それがアサキさんのパワーの源だったと納得することもできる。でも、やっぱり高血圧だった。東北の人はしょっからいものが好きだ。あらゆるものが、しょっからい。そんなところで暮らしているから、みんな高血圧になる。
 昔はがんがん肉体仕事をしただろうから、それくらいの塩を摂取してちょうどよかったのかもしれない。しかし、今は機械化でだいぶ肉体労働は減ってきているから、塩をとりすぎてしまうんだろう。しかもアサキさんは、輪をかけて、醤油が好きだった。なんにでも醤油をたっぷりかけた。東北地方は味が濃いとよく言うけど、お店の味は、それでもずいぶんふつうだ。でも、家庭の味は、とんでもなく辛い。

 アサキさんが肉しか食べなくなったのはいつからのことなのか、ずっと疑問だったのだけれど、これも通夜の席で同級生に教えてもらった。

「子どもの頃、野菜ばっかりの生活だったから、その反動で肉ばっかり食べるようになったのかもしれないねぇ」

 アサキさんが子どもの頃、この地域で肉なんか食べていた人はまずいなかったということだ。昔の動物は食肉用ではなく、田畑を耕すために働く動力だった。働いていたのは当初は馬で、それから牛になった。牛を食べたり牛乳を飲むようになったのは、ずっとあとになってのことだった。
 確かにこのへんにはお肉屋さんはないし、あったという話もない。豆腐屋さんもない。豆腐をつくる家は何件かあって、そこに大豆を持っていくと豆腐にしてくれたらしい。だから豆腐はぜいたく品だった。そして肉はさらなるぜいたく品だった。
 かわりに、野菜は昔からたっぷりあった。大根や白菜は、凍み大根や漬け物にして保存すれば長いこと食べられる。野菜がぐんぐん育つ夏の間は、食べる間もなく育ってくる。
 アサキさんの枕元で、みんなは語りあった。あんだけ肉ばっかり食べていたら、頭の血管も切れるだろうという話も出たけれど、それもアサキさんの人生だ。誰かが余計なお世話で食生活改善を進言し、それにアサキさんが応えていたら、ストレスでもっと早死にしていたかもしれない。


 ところで、このあたりの人は、みんな人前で話すのがそこそこうまい。知らない人がほとんどいないから大胆になれるのかもしれないし、小さい頃から宴会に参加するチャンスがあって、そこで鍛えられたのかもしれない。村では宴会芸が義務教育だったと教えてくれた人もいる。
 ところがアサキさん、義務教育をさぼっていたらしい。持ち回りの役員に任命されて、地域の総会で会計報告をしたとき、50人ほどの知り合いを前に、すっかりあがってしまい、プリントされた3枚ほどの事業報告書を読み上げるのに、ずいぶん時間がかかった。退屈な時間が流れ、ちょっといらいらしながらも、その反面、アサキさんは愛すべき人だと、あらためて思った一幕だった。

 とびきりいい景色が見渡せる場所があるからと紹介してもらったこともある。田んぼと山と、道が見える。のどかだけど、なにがとびきりいいのかは、わからなかった。
 ときどき、思い出してそこへ行ってみる。次こそは、アサキさんのとびきりに気がつけるのではないかとも期待する。でも毎回、やっぱりそれほどでもないのを再確認して帰ってくる。アサキさんのとびきりには、アサキさん自身の原体験が含まれているのかもしれない。そのとびきりに気がつくのはむずかしいかもしれないけれど、アサキさんのとびきりの場所だけは覚えておこうと思う。ぼくにとっても、それは大事な思い出だから。

 アサキさんは、地震の半月ほど前に亡くなった。だからアサキさんは地震とその後の原発事故によるぼくらの村の七転八倒を知らない。その後のめんどうを知らずに生きるのをやめたアサキさんは、幸せだったのかもしれない。
 ぼくはいま、原発事故後の村に生きている。アサキさんの知らない、その後の世界だ。いつかアサキさんには、その後の世界を報告しなきゃいけないから、手抜きすることなく、いまを生きなければいけない。

 ぼくも順調に年をとり最近は、大量の肉は消化がたいへんな年ごろになってしまったけれど、それでもときどきはアサキさんを見習って肉を食べてやろうと思うのだった。
(2017年01月19日 11時15分)