ファインダーの五月

 新宿をぼんやりと歩いていた。待ち合わせまで十五分ほど時間がある。
 黄色い看板があった。
 中古カメラ屋だ。
 ガラスケースの中にびっしりと並べられたカメラ、カメラ。
 目にとまったのは、小さめの銀と黒のツートンカラーのカメラ。高校生の時、僕がもっていたのと同じ。
 そう写真部にいた。
 高校生の小遣いで写真をやるのはたいへんだった。だからクラブの暗室でアルバイトをしていた。自営業だ。
 高校生だから、だれにだって憧れの相手ってのがいた。エブリバディ、ラブサムバディ、サムタイムってやつだ。たいていは片思い、僕らのころはね。潔癖さ。たとえ彼氏や彼女がいなくても、自分がいちばん気に入っている子としかつきあわない。当然、人気は集中する。よっぽどの偶然がなければカップルはできあがらない。できあがったカップルといえば決まって運動部のスター選手とクラスで一番の美少女。だから学年中で両想いのカップルはいくらもいなかった。もちろん彼らは羨望の的だ。
 そして、つまり全校生徒のほとんどは叶わぬ想いをじくじくと抱いていた。
 だから商売は繁盛していた。
 放課後に、女子バスケットやテニス部の練習を撮影しに行く。なにしろこっちだって写真部のクラブ活動をしているんだから、大手を振って「スポーツ写真」を撮影していた。
 望遠レンズで人気の女の子を追う。
 額に光る汗。
 サーブを待ち受ける真剣な顔。
 ジャンプシュートが決まった瞬間の弾け出る笑顔。
 斜め後ろからの光線をうけて輝く髪の毛の輪郭。
 大きく引き伸ばして、できあがったら写ってる本人にわたす。
 でも、汗で下着が透けているのは、しまっておいてわたさない。
 そりゃ喜ばれるさ。ふつう写真っていえば写真屋でできあがってくるサービスサイズで、自分が写っている大版の写真といえば遙か昔の七五三なんだもの。それよりずっと大きくてしかもアップで写っている。その上、望遠レンズってのは被写体にだけピントがあって背景はボケる。
 それだけで、女の子たちは有頂天だ。
 自分に自信のある子ほど、アイドルタレントか雑誌のモデルにでもなった気分になるらしい。でも、そのぶん、被写体にならない何人かの女の子たちからは冷たい視線を浴びた。
 それからが仕事。
 同じ写真を、こんどはクラスの「片思い君」たちに売りつける。良心的だよ。キャビネなら三百円、四つ切りで千円。みんな三枚は買う。人気のある子なら、五、六人には確実に売れる。
 それで新しいフィルムと現像液と印画紙を買いに新宿へ行き、残りの金で立ち食い蕎麦を食う。
 そのうちに秘かに噂がひろがり、こっそりとリクエストが来るようになった。
「こんどは体操部の片山を撮ってくれ」とか「新聞部の東を頼む」って具合だ。
 女の子たちも、ほんとうは知ってるんだ。大伸ばしされた自分の写真をもっている男子生徒がいることを内心は喜んでいる。それが本当のところ、ありあまる熱情をもつ男子にどんな目的で使われているのかは別にして。
 だけどあの日がやってきた。
 佐藤が頼みにきたんだ。佐藤は親友だ。
「Kを撮ってくれ」
 もちろん引き受けた。それが「仕事」だから。
「写真集つくってやるよ」
 僕はKにそういった。
 五月の土曜日、学校が引けてからKをつれて鎌倉まで行った。
 寺の境内の木漏れ日があたる頬。
 ジーパンの裾を濡らしながら裸足で歩く逆光の波打ちぎわ。
 土産物屋の店先で何かを手にとって見ている黒いの瞳の淵の睫毛。
 何本も何本もフィルムをつかった。まるでプロのカメラマンのようだ。自分でそう思いながら。
 次の日、だれもいない日曜日の暗室で現像した。赤く暗いわずかな光の中で、現像液の底に沈められた白い印画紙からKが浮き上がってきた。一枚ごとに、見えてきた瞳が真っ黒になる瞬間まで待った。
 天衣無縫の、あくまで解き放たれた、無数の微笑み。
 夏のように暑い日だった。冷房も換気扇もない、酸っぱい匂いのする暗室で、滴る汗を現像液に落とさないように気をつけながら、僕はそれをじっと見ていた。
 竹でできた太いピンセットで印画紙をつまみ上げ、隣の酢酸入りのバットに移す。それで現像が進むのを止め、最後に定着液につける。そして大量の水で時間をかけて洗う。
 フィルムのいくつかのコマから、そうやって、切り取られたKが大きな印画紙になって折り重なっていた。
 タオルで汗を拭きながら印画紙が乾くのを待ち、それを抱えて家へ帰った。
 色画用紙にレイアウトを考えながら貼りつけ、およそ十枚ほどをセットにして、色模造紙で作った自家製の袋に入れ、楽譜を書くのに使うペン先の太い万年筆でタイトルを書き込んだ。
 Kの分と、依頼主の分、二組の写真集のできあがりだ。
 月曜日、学校でそれを佐藤に渡した。そしてもちろんKにも。
 写真集がどういう役割を果たしたのかはわからないが、まもなくKは佐藤とつきあいはじめた。
 不覚にも、ほんとうに不覚にも、僕は嫉妬に燃え狂った。
 二人きりで鎌倉へ小旅行に出かけ、レンズを通して一日中見つめていたKのことを好きになっていた。暗室の中で浮かび上がってくるKの頬がいちばん滑らかで美しく見えるように、それでいて、瞳が黒く濃く輝くように、印画紙の種類を変えて試した。そうしているうちに、いつのまにか僕の頭の中はKでいっぱいになっていたのだ。
 二人が一緒の姿をなんどか見かけるようになってから、僕はもういちど暗室に入って自分の為の写真を焼いた。
 写真集で使ったフレームに加えて、Tシャツの胸の部分だけを大きく伸ばしたものや、脇の下や唇や顎や耳だけを印画紙いっぱいに焼いたものをつくった。
 それはファインダーの中で選び取った画ではなく、暗い秘密の場所で切り取られたKの「部品」だった。
 けれど、そのときの僕はどうしてもそれが欲しかったのだ。
 
 本当のことをいうと、あのときのカメラはまだ僕の家にある。
 だけど、これだけは断言できる。
 あんな五月の写真はもう二度と撮れない。
(2010年07月12日 18時56分)