ビーチボーイズ白浜に吠える(5)

■シンが趨《はし》る

 ざく、ざく、ざく……。
 砂浜の方から重い音が聞こえてくる。
 薪が焼ける臭いもあたりに漂いはじめた。
「けむーい!」
 イイサカの黄色い声があがった。
 そんな時、駐車場に二台の車が入ってきた。
「おぃす!」
 ウィンドサーファーのシンと、サーファー1年生のジェット山中だった。
 シンってなんだかインド人みたいなハンドル名だけど、れっきとした日本人、バリバリの宮崎県民である。
 でも、まあ、せっかくだから、髭を生やしてターバンなんぞも巻いて、常にカレーの材料を求めて彷徨《さまよ》ってほしいなあ、ふふふ、と思ったりもする。
 そう言えば、シンという名は僕にとってかなり痛い思い出が詰まった名前でもあるのだ。
 僕が20代の頃、新日本プロレスのリングにあがっていた、タイガー・ジェットシンに会場を追いかけまわさられてサーベルでひっぱたかれた事がある。
 まあ、試合に興奮してモノを投げつけたわたくしが悪いって言えば悪いのだけど、サーベルという凶器を手に素人を追いかけ回さなくてもいいじゃないか(素手だけでも十分イヤだけど)! 『でこぴん』や『しっぺ』で十分じゃないの! と、机やマナイタを叩いて力説したくもなる。
 新日本プロレス関係者も会場整理係も観客も、僕とシンを遠巻きに見ているだけで助けてくれようともしなかった。
 中には腹をかかけて笑っているヤツもいたりして、もう人生闇だねえ、と全力で走りながら、ヒトの冷たさに心を震わせ、ずどどーんと落ち込み、やがて僕は立ち止まり静かに運命をうけいれたのでありました。
 シンが発した意味不明の言葉と同時に左腕がスルドイ音をたてた。
 痛かった……。
 腫《は》れた……。
 ちょっと泣いた……。
 それからしばらくして週刊プロレスで、ブルーザ・ブロディーに追いかけられてパンツの中に漏らしてしまったという記者の話を読み、「ああ……、君も恐怖のランニングをしたんだねえ……」と、目頭を熱くしたのであった。
「いようー、シンちゃん、おさひしぶりー。今、やきそば作るからねえ。おべんとおべんとうれしいなっ」
 と、歌い、踊りくるいつつ、鉄板などを準備する僕に「油は?」と、冷めた目をしたジェット山中が聞いた。
「はあ?」
 もしかして……。
 僕は固まった。
 ヤキソバの材料は、僕とジェット山中が用意する事になっていた。
 僕はオフを計画する時には必ず『オフ計画帳』というモノを作り、日時、場所、参加メンバー、用意するもの、ヒトに用意してもらうものなどを書き出すことにしている。
 その中に『油』が含まれていなかったのだ。
 こんなモノ、どこの家庭にもあるものだから、当然山中さんが持参してくると僕は思い、山中さんも同じように思ったのである。
 その時、譲りあった二人の肩をぽーんと叩いてシンが踵《きびす》を返した。
「買ってきましょう!」
 シンが趨った。
 お。
 なんか、こう書くとかっこいいなあ。
 とにかく、サーベルを振り回しながら走るシンは怖いけど、油を求めて趨るシンはたのもしくかっこいいのだ。

「はーい! がっつだぜっ」
 中辛カレーご希望の岩下りえちゃんもやってきていた。
 長いストレートの黒髪だ。
 彼氏のビキニとおるも一緒。
 彼は針ネズミような坊主の黒髪だ。
 プロレスラー垣原賢人似のビキニとおるはビキニパンツでサーフィンをしている。
 映画『エンドレスサマー』に出てくる南アフリカのサーファーたちは赤系のビキニパンツで波に乗っていた。
「アメリカではこれをバタフライと呼ぶ」
 という、明るいナレーションとサーファーたちの屈託のない笑顔とマシーンで作ったようなきれいな波が僕の目を釘付けにした。
 アパルトヘイト……。
 撮影当時、自由って言葉が似合わなかった南アフリカの海に、僕は大きな自由を感じあこがれた。
 ビキニといえば、ハワイで波乗りをしていた時、ひもパンツのお姉さんサーファーが波待ちをする僕の目の前を優雅に通過していったってことがある。
 僕は唖然とすると同時に、大丈夫かいな、と思ってしまった。
 実は、僕も南アフリカの人たちをまねてビキニのパンツでサーフィンをしてみた事があるのだけど、これがけっこう痛いし、恥ずかしいのだ。
 沖で波待ちをする時にボードに跨《またが》って座るのだけど、何時間もやっていると股がこすれて赤くなってくる。
 だから、一般的なサーファーたちは長めのサーフパンツをはいているのである。
 波のスピードにあわせてボードの上に立ち上がることを『テイクオフ』という。テイクオフの瞬間、ボードに塗りつけたワックスと股間がざっというカンジで擦《こす》れる。
 サーフパンツだったら、ワックスがなかなかこびりつかないのだけど、ビキニパンツのような素材だとワックスが繊維に食い込んでしまうのだ。
 つまり、大事な部分だけがワックスで汚れ、最後には穴が開いてしまうというわけ。
 まあ、お姉さんたちのパンツに穴が開いているのをちらりと横目で眺めるのは楽しそうだけど男どものは見たくないよなあ、と思っていたら、僕がサーフィンを教えたケンケンのはいていたスパッツの股間に突然穴が開いてしまい、しかもサポーターをしていなかったために若干見えてしまったという、まあ、グロい思い出があったりする。
 ビキニとおるは、シュノーケルと足ヒレを右手にぶらさげ「何かとってきます!」と、言いのこし海の中に消えていった。
 彼のビキニパンツのサイドに差し込まれたダイバーナイフが、ヌードダンサーのパンティーに差し込まれたお札のようで妙にエロチックであった。
 防災会社社長のリンさんとデパートにつとめているノンベのけいこも到着していた。
 リンさんはつり竿を握りしめ、ノンベのけいこは缶ビールを握りしめていた。
 いつも駄々をこねる小学生のように下唇をつきだしている高木が、どひゃーと笑いながらやってきた。
 今回はじめて下唇高木をオフに誘ったのだけど、彼の参加についてはかなりもめた。
 何故か下唇高木は女の子たちに人気がない。
 岩下りえちゃんに「同じ空気を吸っているなんて信じられない!」と、言われたほどなのだ。
 確かに彼には図々しいところがある。
 実は五ヶ瀬ハイランドというスキー場に下唇高木を含めた仲間5人と行った時、助手席で生意気な事を言い続ける下唇高木に僕がキレてしまい、いきなり殴ってしまった事があるのだ。
 スキーをしたあと長時間慣れない他人の車を運転していたので、僕はイライラしていた。
 日はとっくに暮れていた。
「たびたびブレーキ踏まないでよ。眠れないからさあー」
 そう下唇高木が言った瞬間、僕の裏拳が彼の顔面に入った。
「とめろ!」
 後部座席に座っていたアートディレクターの石飛が怒鳴った。
 僕は車をドライブイン太平洋の駐車場に入れて、外に出た。
 チーフカメラマンの大石は「なんてこったい」と、タバコをくわえ僕を睨んだ。
 僕は妙に頭が冷めていた。
 喧嘩の時はいつもこうだ。
 きっと冷たい爬虫類の目をしているに違いない。
「こういうのが一番嫌いなんだよ、おれは!」
 熱く吠える石飛が僕の前に立った。
「おまえに喧嘩でかなうわけないけどなあ、やってやるぞ!」
 と、僕の胸ぐらをつかむ石飛を僕は体落としで軽く投げ飛ばした。
 石飛は腰を押さえてうずくまった。
「馬鹿! やめんか!」
 怒鳴って僕につかみかかる大石をとめたのが下唇高木だった。
「僕が悪いんですよ。生意気な事言ったから」
「だからって、なぐっちゃいかん」
「いやいいんですよ」
「だったら、宇佐美! お前、高木に殴られろ。それであいこだ」
「わかりました」
 僕はつぶやくように言った。
「いやですよ」
 高木が大石にむかって両手を広げた。
「殴れ」
 僕が言い、ややあって、左の頬がぱーんと音をたてた。
「待っててくださいね」
 高木はそう言って、自動販売機で熱い缶コーヒーを2本買ってきて、1本を僕に手渡した。
「すいませんでした」
 高木は深く頭を下げた。
「いや……」
 爬虫類から人間に戻りきれていない、僕はかなりとまどっていた。
 まだ、戦闘モードのままなのだ。
「俺たちの分は」
 腰を押さえた石飛が笑いながら言った。
「自分で買ってください」
 高木が言うと、僕も少し笑えた。
 本当はいいヤツなのだ。
 下唇高木を嫌う女の子たちにもわかってもらいたい、と思って今回彼を呼んだのだ。

 駐車場が賑《にぎ》やかになったようだ。
 アキさん、ふくぞうさん、日向夏さん、ちびムーンさん、川俣ジュンジさん、ふとんのまつおか、本庄保育所の副園長井上優と、優秀な野外生活人たちがぞくぞくと白浜に集結したのだ。
 そして、ビーチボーイズのオフで最も重要な意味を持つ穴は、もうすでに砂浜に完成していて、深く暗い穴の中に埋没される人間を、静かに――、そう、まるで息をひそめ獲物を待つタランチュラように、不気味な空気を漂わせていたのであった。
(2010年05月31日 21時23分)